エイブラハムとの対話:宗教について

今回のエイブラハムの対話では宗教について語られています。
エイブラハムは宗教をどう捉えているか、また、宗教を自分の生活にどのように自分の人生や生活に取り入れていけば良いかがこの対話から分かります。

エイブラハムとの対話:宗教について

相談者:わたしは非常に厳格なユダヤキリスト教的環境で育てられ、教育を受けました。わたしは神を信じ、キリストを信じ、救済を信じるように仕向けられたのです。

エイブラハム:何を信じらさせられたのですか?

相談者:キリストを救済者として認められなければ、死後の救済はないと信じさせられました。

少し別の言い方をしてみましょうか?興味深いことに、この部屋でジェリーが引き出しから聖書を出して開きました。
イエスは言いました。「求めよ。さらば与えられん。」
ジェリーは言いました。「何だか聞いたことがあるな。」

(笑)

他にも、信じれば、現れるという意味のことも書いてあります。ジェリーは言います。「これも聞いたことがあるぞ。」

何かをとりあげて、それが絶対に正しいとか間違っているとか決めつけるのではなく、そこからあなたという存在の奥深くと共鳴するものを見出せばいいのです。

先ほど記号についての話をしました。ガムゥというマントラについてもすべての宗教や多くのメソッドには集中するための何らかのポイントがあります。これは特別な繋がりを持つ人である。したがって癒しの力を持つ、というのもその類です。

そうした最先端にいる誰かの記号を使っても良いはずです。それを使ってあなた自身が何かを達成するのです。もちろん、宗教が用いる言葉のあやに心を奪われるということもあります。

多くの宗教は誕生した時から大きく変容しています。しかしその本質に共感し、それに信奉することに何の問題もありません。わたしたちは多くの人がさまざまな宗教によって自分たちの波動のギャップを埋めるのを見ています。

人生が願望をもたらし、宗教が信じることをもたらすのです。宗教には何の問題はありません。特定の宗教にも問題もありません。しかし、自分の外にあるガイダンスは内なるガイダンスに変わるものではありません。

そしてそれこそが、イエスやその他の宗教者の主要なメッセージなのです。神の国はあなたの中にあるということです。わたしたちには宗教者がいかにして宗教者になるのかは分かりません。

これが宗教だと主張する人の中にはソースエネルギーとの繋がりをまったく持っていない人もいるのです。そうした人はいい気分でいないのです。怒っている人は宗教を実践していません。

相談者:よく分かります。

エイブラハム:でも熱狂的な信奉を取り戻すとは言わないでください。あなたの宗教は非常に大切なプラットフォーム、土台、スタート地点、チャンスをあなたに与えてくれたものです。

あなたは今そこから拡張しています。そのことこそがあらゆる宗教の大切な教えなのです。宗教の動きを見ることは興味深いことです。エスターのような人間がある波動状態になり、ソースのいうことを通訳できるようになると、人々はそれを聞き、文字に書き起こします。

宗教がこうした経験から生まれた言葉の範囲に留まるのであれば問題ありません。あらゆるメジャーな宗教の中心にいる人物は通訳に似た作業を行っていたのです。

エスターとジェリーがこの仕事を始めたころ、サンアントニオでラジオに出演しました。そこで2人は保守派の意味を知りました。ラジオのDJは2人について全く知りませんでした。

なぜ出演できたのかは謎です。更に2人の前後に登場する予定だったゲストが現れなかったため、2人はかなり長い間、このDJと会話をしました。

彼はリスナーが自分と同じような考え方をすることを好むDJです。ですから電話をかけてくるリスナーはエスターが魂の集合体からのメッセージを受け取るということが気に入りません。

ある女性はラジオを聴いていてものすごい怒りを感じると言っていましたので、わたしたちは彼女が何をガイダンスとしているか尋ねました。聖書だと答えるので、なかなか良い本らしいですね、と言うと、彼女は更に腹を立てました。

そこでわたしたちが、聖書はどのように生まれたのですか?と尋ねると、答えは「神から賜った」でした。そこで、それがどのやって翻訳されたのか、つまり神がどうやって紙になったのかを聞きました。どうやって神が言葉になったのか、ということです。

誰がメッセージを受け取り、言葉に書き起こしたのか。女性はそんなこと考えたことも無かったのです。そんなこと疑問に思ったことさえ無かったのです。彼女が自信を持って言えたことは、今は誰も見えないエネルギーや神からの言葉を語ってはいけないということでした。

聖書が完成したとたん、神は語るのを止めたからです。今や誰もが聖書のような本を持っていて、自分の本こそが正しいと主張するのです。そして殺し合いまでして「お前の本は正しくない、お前の本は正しくない、お前の本は正しくない」と言うのです。

そんなことなら、本など埋めて自分でソースエネルギーにアクセスすればいいのです。もしこうした本が本当の自分、神と呼ばれるものの延長である自分を理解するきっかけとなるなら、みなさんは人生の中で意味深い疑問を数多く投げかけるようになり、ソースエネルギーがその1つ1つに応えてくれます。

また、自分の価値、感謝、愛などに取り込み、感情のスケールを上がっていくことによってそうしたものとの波動的な一致を手に入れることができ、それによりみなさんは自分が誰であるかを疑うこともなくなります。

そうした本はさまざまな刺激を与えてくれるかもしれませんが、自分とソースとの真の繋がりに代わるものではないのです。

解説

相談者は厳格なユダヤキリスト教に育ち、キリストを信じなけれなければ救済はない、と教えられたと言っています。それに対し、エイブラハムは聖書の言葉を引用し、「求めよ、さらば与えられん」と言っています。つまり、キリストを信じていようと信じていまいと、救済は求めれば与えられますよ、と返しています。

エイブラハムはどの教えが正しくて、その教えが間違っているかを見るのではなく、自分の内側に共鳴するものだけをピックアップすれば良いと言っています。

その例として、この対話の前の相談者との話を取り上げ、マントラも同じだと言っています。つまり、これからの教えの中で、自分の願望を達成するために便利なツールとして、宗教を活用しなさい、ということです。

宗教はうまれたときから、教えも大分変容しており、時代とともに解釈も変わってきます。だから、教えの本質を見抜いて、そこから自分にとって有用なものを抽出して人生に取り入れれば良いし、そのような人たちをエイブラハムは多く見てきました。

宗教の良さは「信じる」力を強めることです。
ただし、自分の内にあるソースの方を頼りにしなさいとエイブラハムは言っています。それが外にある宗教の教えと違ったら、ソースの方を信頼しなさい、ということです。なぜなら神の国は自分の内側にあるからです。

宗教を自分のプラットフォーム、土台として活用しなさいというのは、宗教を自分の願望を叶えるためにうまく使いなさい、ということです。

次にエイブラハムはラジオの例を挙げています。
そして、神様の教えが本になったとたんに神様が話すのを止めた、というのはおかしいし、神様の教えのことで言い争ったり戦争をするくらいなら、本なんか埋めて、自分の内側に繋がっていた方がマシだと教えています。

あくまで聖書などの本は自分の内側と繋がることや成長の助けになるものであって、それを阻害するものであってはならないとエイブラハムは言っています。

まとめ

宗教の良い点は自分がどうなりたいか、を助けてくれるツールであること。それと信じる力を強めることができることです。
一方で、宗教の教えに縛られて、自分の内側、ソースを押し込めてはいけません。どの宗教が正しい、この教えは間違っている、ということを考えるのではなく、宗教から自分にとって良いものだけを取り出して生活に取り込んでいけば良いのです。

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